「矢島の人たち」企画原案

斎藤佳三と建築
―斎藤佳三「住宅改良と服装問題」によせて―
 
  (三)  平成19年7月28日

                佐藤美弥   NPO法人矢島フォーラム会員
                             一橋大学大学院社会学研究科
                             博士課程
  「住宅改良と服装問題」は佳三の執筆した文章の中でも広く読まれたものとしては最も早い時期のものとして注目に値する。そしてこれが建築専門誌としての『建築世界』に掲載されていることは、この時期の佳三の活動が建築界においても一定の関心をもってみられていたことを示すものといえる。

 内容面についてみると同時期に書かれた「日本人の服装問題」に譲るところが大きいが、佳三がその持論であるところの服装と住宅の一体的な改良の実践において、建築家との協働を企図していたこと、そして改良の基本的な姿勢をかたちづくる要素としての「民族」を重視していたこと、そして、そこで発揮されるべき「民族」の特徴とは、悪しき伝統を廃した「今日の」個人の生活に根ざしたものであるべきと考えていたことを読みとることができる。

このような佳三の民族観にもとづく住宅改良が具現化するには少しの時間が必要であったが、1920年代末における、在来の日本の意匠とヨーロッパの新しい芸術潮流を統合した独創的な居室の総合デザインへと結実していくのである。

以上みてきたように、この記事によって10年代後半における佳三の考え方がより明確になったといえるのではないだろうか。

 冒頭で述べたように佳三の全体像はいよいよ明らかになっているが、彼の多様な活動の足跡は今後の新しい発見を予感させる。そして、佳三の活動そのものだけでなく、同時代の社会状況のなかで彼の活動を理解しようとするとき、その活動はより豊かな歴史像を結ぶ手がかりとなるだろう。

また、矢島の歴史という文脈でとらえるとき、佳三は上京・渡欧して獲得した知識を用いて郷里において校歌や校旗のデザインを行ったし、また地域企業、天寿酒蔵の製品ラベルのデザインもものしている。こうした出郷者がもたらす新しい文化が地域の生活にどのようなインパクトをもたらすのかということも興味深い問題である。


1 「初の商業デザイナーで作曲家」矢島町史編纂委員会矢島町教育委員会『続矢島町史下巻』矢島町、1983年、904頁。
2 長田謙一「〈総合芸術〉の諸相と斎藤佳三」『一九二〇年代・日本 展』朝日新聞社、1988年、長田謙一「斎藤佳三――日本的モデルネと「総合芸術」の夢」『「総合芸術」の夢 斎藤佳三展』朝日新聞社・秋田市立千秋美術館、1990年、長田謙一『INAX ALBUM 4 斎藤佳三/ドイツ表現主義の建築・夢の交錯』INAX出版、1992、長田謙一3 「斎藤佳三 一九三〇年―杭州/上海の経験―」『斎藤佳三の軌跡』東京芸術大学大学美術館、2006年など。
斎藤佳三「住宅改良と服装問題」『建築世界』第6巻12号、1918年6月。
4 島津京/藪田弘子編『斎藤佳三の軌跡』東京芸術大学大学美術館、2006年。
5 この節の記述については長田謙一「斎藤佳三――日本的モデルネと「総合芸術」の夢」『「総合芸術」の夢 斎藤佳三展』朝日新聞社・秋田市立千秋美術館、1990年を参照。佳三の動向の詳細については上記を参照されたい。
6 個人の創造性の自由な表現や総合性の重視といった考え方は、日本においても1910年代末から20年代前半にかけて、明治期の技術偏重の近代化や分業制の進展の反動として若者のあいだによくみられた考え方である。
7 「参考文献」前掲『斎藤佳三の軌跡』。
8 斎藤佳三「日本人の服装問題」『新小説』第23巻3号、1918年3月。
9 ルビは原文ママ。「ヤパーニッシエゼツエシヨン」とは「日本の分離派」を意味するものと思われる。分離派は19世紀末から20世紀初頭の独墺を中心に起こった芸術運動。過去の様式にとらわれない総合的な芸術を志向した。
10 菊岡倶也「『建築世界』」〔解題〕菊岡倶也、藤井肇男編『日本近代建築・土木・都市・住宅雑誌目次総覧 第一期第二巻』柏書房、1990年。
11 内田青藏『日本の近代住宅』鹿島出版会、1992年、72-98頁。


備考: 本稿は矢島郷土史研究会会報NO21に掲載(平成19年3月)されたもの
     を転載しているものです。
     インターネットで読みやすいように、段落などを細分しています。

ご意見、ご感想をおまちしています。