斎藤佳三と建築
―斎藤佳三「住宅改良と服装問題」によせて―
(一) 平成19年6月15日
| 佐藤美弥 NPO法人矢島フォーラム会員 一橋大学大学院社会学研究科 博士課程 |
| はじめに 矢島町に生まれたものは小学校・中学校の校歌の作者、そして町民歌「矢島の歌」の作曲者として同郷人斎藤佳三(1887-1955)の名に親しむ。また、小学校校庭の碑や日新館前の街灯から流れるメロディは彼の歌曲「ふるさとの」を絶えず顕彰しつづける。かように矢島人にとって、佳三はその音楽家としての側面とともに記憶されてきた人であった。 他方、町史に載る人物評1にみるように、佳三は音楽にとどまらない多面的な活動を展開してもいた。東京美術学校で服飾学、意匠学を教授したこと、「商業美術」、「商業デザイン」といった用語をはじめて用いたこと、二度の渡独で吸収した新しい芸術の息吹を各分野に波及させ昭和初期の流行を生みだしたこと、帝国ホテル給仕や国民服のデザインを行ったこと、そし多くの歌曲をつくったこと、こうしたたんに「デザイナー」と表現するにはあまりある、より広い意味でのデザイン、つまり人間の生活のあらゆる要素を総合的に構想しようとした佳三の営みを明らかにしてきたのが長田謙一の一連の研究である2。 また、1988(昭和63)年の「1920年代・日本展」、1990(平成2)年の「総合芸術」の夢斎藤佳三展」といった展観は「総合芸術」の実践者としての佳三の歩みを明らかにしてきたし、昨年末には佳三の母校、東京芸術大学大学美術館で回顧展が開催され、彼の全体像はよりはっきりしてきた。 いま佳三の存在は日本近代史のなかで、とりわけ1910年代後半以降の芸術・文化の動向を考えるうえで看過することはできない重要な位置を占めるにいたっているといっても過言ではない。 私は日本近現代史を専攻していて、とくに1910年代から30年代にかけての大都市の文化や社会を対象としている。最近、当時の建築関係の雑誌記事を調査しているさいにぐうぜん佳三による記事を目にした。 『建築世界』の第一二巻第六号(1918年6月発行)に掲載された「住宅改良と服装問題」3である【図1】【図2】。これは昨年の展観の図録『斎藤佳三の軌跡』4に所収の詳細な文献リストからも洩れているものである。 小稿では上記の記事を紹介しながら、佳三の「総合芸術」の最初期において建築がどのようにとらえられていたのか、ということにも触れてみることにしたい。 1 斎藤佳三について まず、矢島人にとってはなじみ深い佳三ではあるが、行論上、長田の研究を参照しながら、佳三の人生とその事績について概観することにしよう5。 佳三は1887(明治20)年、館町に生まれ、秋田中学を中途退学したのち1903年に上京、1905年に東京音楽学校師範科に入学、1907年音校を退学し、東京美術学校図案科に入学する。 音校時代にはオペラ上演に深く関わり、1906年に日本初のオペラ「羽衣」の主役を演じるほか舞台美術にも親しみ、美校への転身の契機となった。また、オペラはワーグナー熱とともに輸入されたから、ワーグナーの名とともに認識されてきた舞台上での諸芸術の統合、つまり「総合芸術」の考え方に佳三が触れる契機ともなったのである。 1912年に渡独、ベルリンで音校時代からの友人山田耕筰と共同生活を送り、王立工芸学校で学ぶと同時に当時の新しい芸術をぞんぶんに吸収している。このころ佳三や山田ら若い学生を魅了した芸術とは当時勃興しつつあった、ヨーロッパの前衛芸術だった。 ここでは詳述しないが、それは古典主義や中世主義といった歴史主義にもとづく伝統的な様式を忌避し、芸術家個人の創造性を生かした表現を追求するものであった6。この洋行の経験はその後1910年代から50年代にかけての佳三の全生にわたる活動の基調をかたちづくる。 1914(大正3)年の帰国後、一年志願兵としての入営を経て、1922年に再渡欧するまでが佳三の「総合芸術」の実践の最初期といえるが、その頃の佳三の活動を列挙してみる。 ・パンフレットやレコードジャケットなど出版物のデザイン ・市販の浴衣、帝国ホテル給仕の制服、舞台衣装など服飾デザイン ・戯曲、歌曲などの創作 「総合芸術」とはいっても、平面デザイン、服飾、音楽・演劇が主な彼のフィールドだった。 この時期、建築にかんしていえば1921年に親戚の住宅の一室であるという「工業学校長客間」をデザインしていることが注目される。 1922年から翌年にかけての再渡独後、佳三は以前にも増して多彩な活動を展開、長田によればそれは佳三の「人生の結実期」であった。 小稿に関連しては1920年代末から30年代の初めには工芸部門である帝展第四部に、住宅の一室をまるごとデザインした――家具の配置、個々の家具や壁面の意匠なの総合的なデザインといったような――作品を発表するにいたる。 そこで佳三が採用したのはヨーロッパで流行したアール・デコの意匠と日本的な意匠の複合的な表現だった。それは20年代後半からは機能や経済性に関心が向きむしろ装飾を排除する傾向にあった建築界とは異なる、より装飾性を重視するものであった。 また佳三個人の文脈でいえば「総合芸術」をより広い視野で実践したものといえるかもしれない。 その後、1955(昭和30)年に他界するまで佳三は教育者として、また戦時期においても国民服のデザインをてがけるなどデザイナーとしての多様な活動を続けているがここでは詳述しない。 備考: 文中に「1」などで示されている註は論文のさいごに一括して掲載します。 本稿は矢島郷土史研究会会報NO21に掲載(平成19年3月)されたもの を転載しているものです。 インターネットで読みやすいように、段落などを細分しています。 ご意見、ご感想をおまちしています。 |